目次
日本の近代的な学校制度のはじまり
日本において、国民のために国が学校を開いたのは、明治5年(1872年)の学制発布からです。
学制は教育に関する法律であり、身分や性別にかかわらず国民の全てに教育を受けさせることを目的としました。
時代背景
当時、世界的に国民国家樹立の動きが世界中で起こっています。
時期が早かった国もあれば、遅かった国もありますが、列強に名を連ねようとする国の中では日本は遅かった部類にあたります。
なお、完全に一列にすることはできませんが、
ロシア帝国は1721年、アメリカ合衆国は1776年、フランス(第一共和政)は1792年、イタリア王国が建国されたのは1861年、ドイツ帝国が建国されたのは1871年、(イギリスはアイルランドをめぐる統治体制があるので、現行の体制が成立したのは1922年)日本が明治新政府による大日本帝国の体制になったのは1868年です。
となります。
ここで、それまで領邦国家だったドイツとイタリアが1860年から1870年ごろにかけて統一国家を建設したことは、世界史的な流れとして大きいものがあります。
それまで、同じ言葉を喋りながらも、地域によって訛りによる違い、単位の違いなどによって人々の生活に不都合が生じていました。
また、政治的経済的にも他国から脅かされるようになり、一致団結して国家を(しかも工業化した近代的国家を)建設しよう、という動きが強くなります。
この流れの中に、日本も置かれていました。
学校が目指したもの
学校が目指したものは、国家として生き残ること、です。
個人的な問題もあるでしょうが、1番の関心事は他国に侵略されないことであり、そのための経済力を身につけるために、国民を統一的な方法で教育し、意思疎通をしやすくし、基礎的な能力を高めることにあった、と言えるかと思います。
結果として、日本はその後、工業化し、近代的な軍隊を持ち、他国から侵略されない国になったので、当初の目的は果たした、ということになるでしょう。
職人が厚遇された時代
吉村昭の著書には、当時の給与体系に触れた箇所があります。
(私の記憶が定かではないのですが『戦艦武蔵』に記述があったと思います)
それによれば、当時の職人の1番上の位の給与は、軍のトップと同じでした。
現在からみると、これは意外なことです。
これは、現場作業員をとても厚遇している状況が過去の時代に確かにあった、ということになります。
学問は確かに大事にされていて、学校に通い、学問を修めることは重視されましたが、それでもまだ現場作業員としての職人も大切にされていた時代が戦前にはあったようです。
戦後の学校
戦後になると、工業化がさらに進みます。
物の価値を産むのは機械になりました。
そのため、機械を設計する仕事、あるいは機械を操れる能力が重宝されることになります。
なお、年功序列制度の中にあって、最初は誰もが学歴に関係なく現場作業からスタートさせる仕組みになっていたのは、現場作業を通して知識を習得し、それを仕事に生かすことを目的とした部分があり、職場の連帯感を産むと言う作用も兼ねていたようです。
時代の変化
当初、大学に進学する生徒はごく一握りであり、そのため大学生はいわゆるエリートとして扱われました。
ところが、時代が豊かになるにつれて、それまでより多くの学生が大学に進学するようになり、大学生は過去の時代に比べてありふれた存在になります。
この流れの中で、大学生であることが価値を持っていた時代は過去のものとなります。
(明治時代の大学生は英語で授業を受け、外国語の読み書きができたのに、現代の大学生はどうか?と考えると、数が増えた分、過去の意味での大学生ではない、となりそうです)
また、機械化が進んだことで、職人の地位も脅かされます。
機械があれば、長年かけて能力を蓄積する必要がない場面が増えていき、職人の数は以前より必要とされなくなります。
分断
こうして見ると、良しとされるものが変わったことがわかると当時に、それまで大事にされたものが色々と変わったことがわかります。
その結果、良い結果を生んだものもあるかもしれませんが、悪い結果をもたらしたものもあると思われます。
しかも、機械が価値を生む時代が進みすぎたことによって、人間がないがしろにされるようにもなります(いい悪いではなく、時代の流れの必然として)
その結果、本当に能力のあるスーパーマンを除いたら、あとの大多数の人間は価値をさほど生まないような仕事にしか就くことができない、という状況が生まれようとしています(今後予測される人工知能の進展は、この傾向をさらに大きくすると言われる)
社会のシステム
だからこそ、これからの時代はさらに勉強することが求められるはずなのですが、現実にはどうかといえば、日本人の高度な人材は世界的に見ても数が少ないようです。
大学までは卒業しても、その先、大学院まで修了する学生が少なく、より高度なプロフェッショナルがいない、という状況です。
大学院に行っても世の中はさほど評価してくれない状況も存在します。
さらに、大学生の就職活動で重視されるのが学問ではなく、学生生活(バイト、サークル活動)だったりする、ということからも、学ぶことがないがしろにされていて、しかもむしろそうすることを評価するような状態にすらなっているとしか思えません。
このままでは困ることは確かだが…
アルバイトをしないと学生が生活できない、という事情など、いろいろな面が絡んでくるので言い切れない部分もありますが、このようなチグハグな状況が続いていくことで得をするのは誰なんだろう?と考えざるを得ません(私だけでしょうか?)
評価軸を変えていかないと、誰のためにもならないと思うのですが…
生き方の問題
近年では、教育は国家のため、という側面は弱くなり、個人の自己実現のため、という色彩が強くなったと思われます。
だったら、多様な生き方が実現できる世の中であったほうが、教育は生きるはずです。
いつの時代のままなのかもわからない社会の仕組みがずるずると続いていく中で、学ぶことさえ評価されないというのは、かなり問題があるように思います。
いろんな現実が変わってきている中で、どういう生き方を目指すのかをそれぞれが考える必要があります。
価値があるものの定義が変わっている中で、それでも昔のように大学を目指せという社会がいいのか、それとも、そうでない生き方も評価する社会がいいのか?
情報は誰でもより簡単に得られるような時代になってきていて、それまでよりも同じ到達点に立つまでの時間は少なくても済む時代です。
人間をないがしろにしない世の中が訪れて欲しい、と思うのですが…