ものを買うという行為と愛の関係
もし何かものを買う時、その購入する行為の中には、愛とでもいうべきものが含まれている場合があります。
商品を売る側と商品を買う側の思惑が一致したとき、お金を媒介にしてやりとりが行われます。
商品とお金のやりとりではありますが、それを買おうとしている側を考えると、お金を支払う以外にも、なんらかの感情のやりとりを行っている、と思われます。
それは、価値あるものを支払うことの快楽のようなものです。
パッとお金を使ってしまったときに、妙な清々しさというか、痛快な感じがあると思うのですが、まさにそのことです。
もちろん、相手から商品を買っているのですが、ものとお金は完全にはリンクしないばかりか、お金はものに変簡単に替えられるけれども、ものはお金には替え難い、ということがあります。
ですので、お金を支払うことの方がリスクが高い場合もあります(上記のような不可逆性がある)
ともかく、手元にある価値を支払った、ということ自体になんらかの快楽があり、それと引き換えに違う形でものとして価値を受け取る、ということによってさらに快楽を得ている(のではないか?)
買い物中毒になってしまう人もいますが、こうした作用があることがその原因ではないかと思います。
その快楽は、もしかすると、一種の気分の良さであり、それこそが相手へのなんらかの好意的な感情、とも言えるはずです(つまり、愛に似た感情)
お金に愛はあるのか?
お金は価値を一時的に形を替えて保存しておくための媒体です。
お金そのものには、愛はありません。
あるとしたら、人間がお金に愛のような感情を一方的に持っているだけです。
お金に好かれる、という表現も確かにありますので、もしかするとお金というものにもなんらかの意志に似た作用を生じさせるような要素があるのかもしれませんが??
本当のところはわかりません…
無機質なお金はそのままではただの物質であり、数字ですが、そこに愛を込める、ということはできるのかもしれません。
与える愛
人間にとって大事なことは、誰かに何かを与えることです。
というのも、奪ってばかりだと、お互いに奪い合う関係になるだけで、争っているだけの状態になるからです。
そうではなく、困っている人の手助けをする、そのことによって相手を助け、それによってお互いになんらかの関係性を築いていく、ということが人生を豊かにしてくれます。
与える、という行為が大事だとされるのは、こういう作用があるからです。
ものを買う行為は、奪うことではなく、与え合うことです。
とするなら、ここには、お互いを助け合う要素も、お互いに愛のような感情をやりとりする要素も含まれています。
価値を分かち合うということの意味
宗教の話にもあったように、大昔から人間には価値を分かち合う行動を取る習性や、それを行うことを良いこととする考え方があるようです。
価値を分かち合うことによって、社会は安定し、誰かに富が集中することを防ぐことができるだけでなく、それによって新しい可能性が自分以外のところから生まれ、それによって自分も引き上げられていく、という期待を持つことができます(相手から価値を与えてもらえる、ということもある)
独り占めするよりは、こうした方が理由を付けなくても、あり方としていいように私にも思えます。
おみやげ
最後に、おみやげの話です。
おみやげは不思議なもので、旅行に行ってきたときなどに買ったりします。
そのおみやげは、もらった人にとってはプレゼントです。
なんでそんなプレゼントを買ったりするかといえば、そこには旅の思い出を誰かに共有してもらいたい、旅したところがどんな場所だったかを感じてもらいたい、という気持ちが隠れています。
誰かの喜ぶ顔を見たい、あるいは、自分が体験した思い出を誰かに知って欲しい、ということです。
商品には、価値だけでなく、体験やその時という時間を込めることができて、それを一時的にでも誰かに知ってもらう、あるいはその特定の時間を記憶の中に一時的に封じ込めておく、という作用がある、ということです。
商品は、それ自体が(体験や記憶の)おみやげもある、ということですね。