よつばの日記帳

学年ビリから1年半で大学に合格する方法|その4|教育制度のこと

2020-06-20

教育制度の問題点

学校の制度として、日本では飛び級制度がありません。

さらに、大学以前の教育課程では留年することもタブー視される風潮があります。

(大学においても留年することはあまり良しとされない)

人それぞれ学習の進み具合が違っているのに、教育課程の長さは決まっているので、年月が過ぎればわかっていなくても進級するし、卒業してしまいます。

この状態は、果たして本当に教育を受ける側にとっていいことと言えるでしょうか?

より柔軟な教育制度である方が、学習理解度も進みますし、その後の人生にも有効である、と思います。

成績は何を示しているのか?

成績は、学習の理解度です。

テストの点数で示すことができるのは、その時点での度合いです。

確かに、頻繁に試験を行うことは指導する側にとって管理しやすくなるというメリットがありますし、学習する側も試験を目標に勉強するので学習定着度が上がる、というメリットがあります。

ですが、このサイクルは良い方向に働く場合はいいですが、一旦、理由があって学習できない期間が生じたり、理解不十分な箇所が生じている場合は、負担でしかありません。

学習の進み具合を測る手段を他に用意する、という必要もあるのではないか?と思われます。

学習習熟度の測定と理解の進み方の関係

わからない箇所を潰していかないと、先に進めないことがあります。

私の場合をみていただくと分かる通り、過去に振り返って学習をやり直す機会というものがないと、学習する側にとってはかなりの負担になりますし、人生の進路を諦めさせる結果につながってしまうこともあります。

定期的に学習を測ることも大事ですが、それよりも基礎からやり直させる期間をとった方が、結果的に理解が進み、最終的に到達できる地点が大きく変わってきます。

学校が実施している試験は、管理方法としてはあまり優れたやり方とは言えないでしょう。

学校が優れているのなら、学習塾は存在しないはずです。

マス教育は過去のものではないか?

学校制度というのは、いわば学習の工場化です。

近代化に伴って必要に迫られてできた仕組みです。

技術的にこの仕組み出ないと、大量に学習を修了した人材を社会に提供することができなかったということが大きな背景としてあります。

ですが、時代は変わっています。

工場労働者を生み出すための学校は、もはや過去のものとなっています。

なのに、学校の仕組みが変化していません。

これは大きな問題です。

個人個人に合わせた教育ができるはずなのに、それが実現できていないということは、非常に悲しいことです。

教育を個人に合わせる気がなく、個人が教育に合わせるのが当たり前、という考え方が当たり前であり、それが普通であると思い込んでいる、ということもあるでしょう。

教育側が個人に合わせる、という発想に至っていないことが問題です。

少なくとも、工場で必要とされる人間を生み出すための教育からの転換を図り、これからの時代に必要になる、創造性や知識を生み出していくための教育にならないと、教育を受ける側にとっては役だたたない、意味のない教育です。

このままでは、将来の社会の可能性を知ってか知らずか潰しているのと同じです。

多様性を認めない学校システム

学校は、多様であることを認めていません。評価できない、評価基準の枠から外れたことは評価さえされません。

教育も一種のサービスです。

なのに、真の意味での教育のコストとパフォーマンスのことは意識されておらず、いまいる教師たちの利害で左右されている部分が大きいと言えるでしょう。

私にとっての高校生活は、こういう意味でのロスがとても大きくなりました。

結果として、私自身にとって3年間は無駄になった、とさえ言えます。

こういう思いをして悲しいのは、教育を受ける側であり、教育する側はそんなことが起きていることさえ気に留めることがない。

非常に残念な状況です…

私は、こういうことが2度と起きて欲しくない、そう思っています。

そもそも、江戸時代の寺子屋や私塾を見れば分かるはずですが、教育とは多様なものだったはずです。

ニーズを汲み取れないサービスがなぜ淘汰されないのか?

おかしなことがまかり通っている、と思います。

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