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よつばの日記帳

お墓参りについて考える

2020-08-13

人間はいつか死ぬ

人間は、いつか死んでしまうものです。

生物として進化していく間に、ただ細胞分裂で同じ遺伝子のままの個体を残すのではなく、違う遺伝子を残すことで環境の変化に強くなったり、違う状況に対応できるようにするために性別の違いができ、その代わりとして死が生まれました。

生物として高度になった代わりに、死ぬことは避けられなくなったということです。

これは一種の新陳代謝、という側面もあるのかもしれません。

お墓参り

死を儀式化しているのは人間くらいなものです。

縄文時代の遺跡からは死者の墓に花を供えたという証拠が発見されているようです(花粉が発見されている)

これは、人に感情があるということです。

お墓というのも、生物としての高度な感情の現れ、と言えます。

人間は孤独な生き物

人間は、生まれるときも、死ぬときも、誰かと一緒ということはありません。

生まれる要因は1人ではなく、両親が確実にいますし、生まれる時に双子だった、という場合もありますが、自分が生まれた瞬間からそのあとは、その人の人生であり、個別のものです。

そして、死ぬときもまた、個別の問題です。

仏教では生老病死と言いますが、生まれたあとは苦しみの連続です。

その苦しみの果てにあるのが死です。

誰も死からは逃れられません。

自分と他人は違うものですし、自分の気持ちと誰か他人の気持ちが完全に同じ、と言うこともありません。

生も死も、個別の問題であり、生きている間も、人間は孤独です。

気持ちの整理?

お墓参りというのは、死者と生きている人の間の対話のための行為なのかもしれません。

死者からは言葉が直接返ってくるわけではなく、あくまで生きている側の心の問題、ということになるかと思いますが…

生きていく上で感謝が大事、とよく言われますが、お墓参りはこのことに関係してくるものです。

自分は何者なのか、ということを確認するための行為でもあります。

死を見つめることで、生きるということはどう言うこと何か、自分とはどう言う人間か、ということを考えることにつながります。

また、死を見つめることは、生きる孤独を紛らわすことでもあります。

自分は独りだけれど、自分に繋がる存在が確実にいたという証は、お墓参りをすることで確認することができます。

個人的な話

私は今年で40歳になりますが、いままでに家族や親戚の死を何度か経験しています。

そうした場面に遭遇するたびに、やはり人間とは何か、という問題を考えざるをえません。

お墓参りをするたびに、やはりうまく言えませんが、私はどこか厳粛な気持ちになります。

故人の思い出をふと振り返ったり、あるいはあの時のあの行動や言葉は一体なんだったのだろう?ということも思い出したりします。

明るい気分にはなりませんが、ただ、この行為自体「動かない一つの点のようなもの」です。

きっとお墓参りを通して何かを確認している、ということにもなっているようにも感じます。

(自分の人としての至らなさを反省するばかり、と言うのが現実だったりします)

なんともうまく表現できませんが、人間は意味があるからお墓参りをする、ということは確実です。

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