昨今、夢を持つことが重要視されていますが、今回はあえて夢を持つことのリスクについて考えてみたいと思います。
目次
夢を持つことは大事だが…
夢を持て、と偉人は言います。
ですが、夢を持つにしても、過去の偉人たちはどういうことを言いたかったのでしょう?
クラーク博士 「少年よ、大志を抱け」
この言葉はとても有名です。
実際には、(クラーク博士自身のように)野心的であれ、という意味だったようですが、世の中には「少年よ、大志を抱け」というフレーズで定着しました。
なお、この言葉は日本を経つクラーク博士と生徒との別れ際の言葉であり、そのため、より印象的に語られたことで定着したものと思われます。
ここでは「夢」という言葉は使われておらず、「大志(野望、野心)」が使われています。
吉田松陰 「夢なき者に理想なし、理想なき者に計画なし、計画なき者に実行なし、実行なき者に成功なし。故に、夢なき者に成功なし。」
これは強烈なメッセージですが…
実は、この言葉は吉田松陰の言葉ではない、という説があります。
言いたいことはよくわかりますけども、もし本人の言葉ではない、とすると、誰が何の目的でこれを吉田松陰の言葉だ、として紹介したのかが気になります。
夢は叶いにくいもの
夢は、確かに叶いにくいものです。
叶いにくいからこそ、夢は希少性があり、夢を叶えることはそれだけで素晴らしいことになるのかも知れません。
むしろ、夢なんか見てないで現実を見ろ、ということをいう人もいます。
それも確かに一理あることです。
何はどうであれ、何も言わず日々を淡々と一生懸命生きている人が世の中にはたくさんいます。
その人たちが1人残らず消えてしまい、今日から夢を叶えるんだ!となったら…世の中は機能しません。
少なくとも、夢を持つという基準では低いものとされる仕事に就く人がいなくなってしまうでしょう。
夢を持つかどうか、それは生き方の問題です。
日々、平穏に生きていくことを理想としている人に「夢を持て」と言っても、むしろ酷なこともあるのではないか?
実際に、夢は叶いにくいものですよね?
平穏な生活を無理に終わらせ、夢を持て、と言って無理をさせ、結局夢が叶わないまま元の幸せも失う、という状況に陥っても、夢を持て、と言った側は責任を持ってくれるわけではありません。
夢を持つことは一方的に語られ、夢を持っていないということが否定されてしまうことは、少し問題があるように思います。
それでも夢を追うのか?
現実との折り合いを、生きていく中で着けなければいけない場面が、どうしても発生する、というのが、むしろ現実ではないか?と思います。
夢を追うことに一生懸命で、現実の生活もままならない、という場合もあります。
それなら、自分ができる違うことを見つけて、それをしていた方が幸せなのではないか?ということも起こりうることです。
できることとしたいことは違う
人は、何でもできるわけではありません。
そして、できることがあったとしても、それが自分のしたいことと完全に一致している、という場合はとても少ないです。
それは、自分だけでは世の中を生きていけない、ということと関係しています。
例えば、漫画家になるのが夢だった、という場合。
自分の描きたい漫画で生活できた、という人は一体どれくらいいるでしょう?
漫画はそれを読んだ人に受け入れられたかどうかにも左右されます。
実際には、受け入れられる漫画を描くことと、自分の描きたい漫画を描くことは必ずしも一致していないようです。
むしろ、売れる漫画家になった後、その影響力を背景に自分のやりたかったことを漫画で実現する、というパターンが多いです。
これを考えてみると…
何か夢を叶えるにしても、いくつもレベルがあり、ある一定のレベルまで到達するだけの夢ではおそらく夢は完結しません。
何かをできるようになったら、さらにその状態から何をするかが問われることになるのです。
できるようになるだけならば、それは塾や資格スクールと同じです。
むしろ、できるようになった後のことが問題なのです。
夢を追うなら他の道も残しておくべき
実際、できるようになったからと言って、それで生きていけるかどうかがまずわからない物も存在します。
最高峰の芸術大学に合格し、卒業後、画家になる、という場合、それはとても倍率が高い、大変難しいことです。
ですが、その絵が評価されるかどうか、というのはまた別の問題です。
できることを何に使うのか、その使う先の市場性はどれくらいあるのか、ということで決まってくる部分が多いのです。
自分が死んだ後に評価されることを目標とするなら、それもいいでしょう。
ですが、ほとんどの場合、生きているうちに夢の結果を得たい、と願っている場合が多いと思います。
この意味での夢は、生きている間に利益を得られるかどうか、ということになります。
これだと、いくら夢、と言ったところで、結局はお金があればいい、ということなのではないか?とも思えるのですが…
それでも、夢を追うことを勧めるのならば、やはりできることを伸ばした上で、やりたいことをやる方がいいだろう、と言えます。
時間がなくなってしまうから専業でやりたい、というのも悪いとは言いませんが、リスクが高すぎます。
大成功した人の人生を見れば確かに羨ましいことは事実ですが、その人は大失敗した可能性だってあります。
成功するか失敗するかは運の要素も強く、努力したからと言って報われるわけではありません。
成功したかどうかは運だけかも知れません。
なので、人生を失うリスクを許容できるのならいいですが、それができないのならば安易な夢を持つことはむしろ害悪となります。
軸を持つ、ということ
大事なのは、自分の軸を持つことです。
軸というのは、考え方や生き方の柱を作っておく、ということです。
自分は何のために生きていくのか、何を大事にして生きていくのか、ということをきちんと持ち、それに照らし合わせて行動していく、ということです。
夢を持つことよりも、この軸を持つことの方が遥かに大事なことです。
今いる自分より高い位置にあるものを夢、と認識してしまいがちですが、別にそれが低くても、まったく構わないはずです。
ただ日々を平穏に、身近な人が平穏で幸せであって欲しい、という願いだって立派な夢です。
それを夢を持つことが美徳である、という価値観を押し付けるのは、むしろよくないことのようにさえ思います。
「何者かでなければならない」悲劇
おそらく、背景には、自分は特別で、何かを生きている間に成し遂げなければならない、という強迫観念があるのだと思われます。
こんな思いを持たなければいけない人が、世の中に多すぎることが、夢を持っていないと悪である、という風潮を生み出しているように思います。
夢は、なくても生きていけます。
生きるということは、夢を叶えることでは必ずしもありません。
それもまた事実です。
何か特別なものでないといけないのなら、そうでないことが価値を持っていないと言えるのだろうか?
社会的に評価されないことをしていることが、全くの無価値だろうか?
私はそうは思いません。
何かやり始めてみて、たまたまうまくいったから、じゃあ次はもっと上の目標を立ててみるか…
この繰り返しの果てに夢が作られたのであり、最初から大きな夢なんて、実際あったのだろうか?むしろ後付けの理論で夢を持つのが大事なんだ、と言っていることだってあるんじゃないか?
最初から大きな夢を設定しろ、というのは、他の可能性を潰してしまうこともあるので非常にリスクが高い。
そこまで無理して夢は持っていないといけないのだろうか?
生まれたことは、極めて可能性の低いことの連続なので、確率論的には奇跡に近いそうですが、生まれてきた意味、となると、これはただの偶然です。
生まれるべくして生まれてきた(何かを成し遂げるために予定されて生まれてきた)子供なんて、いません。
生まれるのは偶然ですが、必ず人は死にます。
なので、死ぬのは必然です。
生命の現象としてはただ、遺伝子を残すためにプログラムされた部分もありますので、そこに夢という要素は一切ありません。
生きていく中で、生きやすくい生きていくことは大事ですし、なるべくそうであった方がいいですが、それは普通と言われる生き方でも実現できるものでしょう。
なので、あえてそれに逆らって夢を叶えるんだ、という場合は、成功の可能性を計算した上で、それで安定して生きていけるかどうかを考慮し、できそうだったらそれまでの本業を捨てる、という段階を踏んだ方が無難だ、と言えます。
夢を持つことに積極的でなくても、むしろその方が人生が安定するならば、そちらの方がよっぽど幸せです。
現在、副業がブームになっていますが、やりたいことをやってみる中で出てきた可能性を少しずつ広げていく、これがとるべき道です。
いきなりやりたいことをするよりは、できることをまずできるようになり、そこからやりたかったことに挑戦する、というのでも間違いではありません。
どうか、そのことを自分で見極めてみて、判断することを願います。