市場とは何か
市場とは、モノの取引が行われる場を指します。
英語のマーケットの意味を調べてみると、
market
a time when people buy and sell goods, food etc, or the place, usually outside or in a large building, where this happens
(「ロングマン現代英英辞典」より引用)
とあります。
訳すると「人々が製品や食べ物などを売買する時、あるいはそれが行われる時の場所」といったような意味になるようです。
つまり、取引が行われる行為か、取引が行われる現実の場所を指していう言葉がマーケット(市場)ということになります。
行為が成立するならばどこでもそれは市場であり、大きな敷地を備えた場所である必要はない、ということになります。
電子的な方法で株取引が行われている場合も、それが行われている特定のドメイン(あるいはそのドメインが運営されているサーバ)が市場のようなものであり、そのドメイン内で展開されている取引のための仕組み全体が一つの市場、ということができるかと思います。
個人間でマッチングできるならば、取引が生じている場が市場です(現実か仮想空間かを問わず)
モノの価格と価値
よく市場経済と呼ばれたりもしますが、まさにこれは市場を通して行われる経済のことを指します(反対語は計画経済)
市場を通して自由なやりとりの下に行われる経済、ということですので、これは資本主義国には必須の条件、とも言えるでしょう。
市場は、仲介の場です。
売り手(売りたい人)と買い手(書いたい人)の意思が合致したときに、売買が成立します。
売りたい人の値段と書いたい人の値段が一定の合意点に達しないと、売買は成立しないことになります。
需要と供給のバランスによって、モノの値段は決まります。
モノそのものが本来持っている物質としての価値を必ずしも反映するかどうかについては、おそらくそうではない、という場合もあると思います(供給が多過ぎれば、値段は下がることになるが、モノそのものが果たす機能には変化がないはずです)
ということなので、モノの価格は一定程度の価値を表現してはくれますが、本当にモノが持っている価値を表しているかどうかについては、疑問点が残る、ということになるかと思います。
価値は何で決まるのか
価格はその時の需要と供給によって決まりますが、モノの価値はどこで決まるのか?
これは、よくわかりません。
ただ、モノが持つ機能、あるいはそれを評価する人間の価値観によって決まる、という気がします。
時代によって、あるいは地域によって、基準は違います。
例えば…
平安時代の貴族の女性の美しさの基準は、現在とだいぶ違っています。
平安時代の貴族の女性が扇を持ち、顔を隠しているのは、化粧が崩れるのを隠すためだ、と言われています。
人前で顔をむやみやたらに見せるものではない、という考え方があった、というのも背景にはありますが、さらに、美しさの基準が「色白、ふくよか、切れ長の目、小さい鼻」ということだったようで、古い文献に出てくる人物画のように、白いふっくらとした顔が好まれた、ということになります。
これは、少なくとも痩せていることや、二重瞼の目に価値が置かれがちな現在の基準とは異なっています。
たとえ同じモノだったとしても、それを評価する人の基準(時代によって大きく影響を受ける)により、価値はだいぶ異なる、というのが現実かと思います。
動かなければ価値がない?
なお、価値があるものがあったとしても、それが市場に現れないと、価値は生まれない、とも言えるでしょう。
評価してもらえなければ、価格はつきません。
まずはそれが人の目に触れなければ、評価されることもなく、したがって、価値があったとしても、適切な価格がつくことはありません。
市場は貨幣を媒介としてモノがやりとりされることになりますので、いわばモノに流動性がなければ評価が生まれない(価値が発生しない?)ということになるでしょう。
自分はすごい才能を持っている!という場合でも、それが外部に知られることがなければ、一生ずっとそのままなのと同じです(もしそのまま、永遠に人の目に触れることがなければ、その人が残した作品もどこかに埋もれたまま、永遠に評価されることはないでしょう)
差がなければ価値がない?
価値がある、ということは、他と比べて価値がある、ということかもしれません。
もちろん、モノそのものが絶対的な価値を持っている、ということもあります。
その価値は、やはり評価する人にとって特別なもの、利点、良さを感じなければ高く評価されることはありません。
ということは、なんらかの差があることが必須、ということになります。
高価な素材を使っている、とか、機能性が高い、とか、あるいはとても洗練されている、とか…
為替取引などをみると、落差に価値が生まれることになります(安いときに買い、高いときに売る。これをしないと損をするだけになる)
味や姿形の美しさがあるわけでもない通貨の取引は極端な例だとしても、これはやはり市場取引の本質を映していると言えるかと思います。
数値化できない価値
世の中には、評価ができないものもあります。
それは、市場取引の場に出てこないものです。
善悪というものは、数値で表すことができません。
また、感情といったものも、数値では表せないかと思います。
まず基準が曖昧であり、また、それを流通させることができない、ということもあり、取引することができない、ということでもあります。
市場で取引されるものというのは、いわば数値化できるものであり、お金で売買できる性質のものだけ、ということにもなります。
(もし仮にこの世のものをすべて数値で表すとするとすると、私だったらちょっと気持ちが悪い気もしますが…)
「これには価値がある」というように、よくわからないけれども何かに価値を認めたとしても、それを数値に置き換えられることができなければ価格をつけることはできません。
少なくとも、取引を行う当事者間で価値観を共有した上で、価格という数字に合意ができなければ、取引されることはないでしょう。
人間の幸せと価値と市場
これは何かの示唆を与えてくれるのではないか?と思います。
つまり、お金は確かに大事ではあるけれども、やはりそれだけがすべてではない、ということです。
価値は流動的なものであり、その本質を必ずしも映し出すものではありません。
人間がいるところなら至る所に市場は成立しますし、そこでやりとりされるものは多種多様におよびます。
だからと言って、それが人間の活動のすべてではありません。
お金で解決できる問題は、お金で解決できるのだからなるべく苦労がないほうが生きやすい、というのは事実です。
問題は、その先にある、と言えます。
まとめ
インターネットが登場し、規制も緩和され、あらゆるものが瞬時に取引されるようになりました。
やりとりがしやすくなったことはいいことです。
ただ、あたかもそれが人間のすべてなのか?というと、決してそうではないはずです。
仮にやりとりできるものがすべてである、とするならば、やりとりされないものは価値が無いのか?
あるいは、価値がないとされるものは、本当に価値がないのか?
そうではないはずです。
市場化が行き着いた先が、価値がないとされるものも大事にする世界であって欲しい、と願います。