葛藤とは?
葛藤とは、2つの相並ぶ欲求がある場合、その両方を選ぶことができないために悩み、どちらを選択するか決めかねている状態を指します。
葛藤の状態に置かれると、人はフラストレーション(欲求不満)を高めていく事になります。
そして、そうした状態に陥ったときの人は、その対処として、葛藤の原因となっている問題を解決するか、その問題から逃れようとする、と言われています。
葛藤を解消する場合の具体例
葛藤は2つの要素があった場合、そのどちらを選択するか迷い、選択できない状態ですので、それを解消するには、どちらかを選択するしかありません。
その場合、選択する方を選択する、と決めていて、選択しない方を選択しないことを決める、ということになるわけで、選択しない方を選択しない、と決めるためには、選択に値しない理由を考えたり見つけたりしようとすることになります。
それは、事実を調べて比較したりしながらデメリットを探していくか、あるいは「そもそもそんなものは欲しくなかった」というように解釈を変更したりするようになります(もしかすると「これを使うと不幸になる」というありもしない理由をつけたりするようにもなるかもしれません)
これは、心の中に認知的不協和が生じていることが原因で、その解消のための行動がそのまま現れている、ということになります。
葛藤を回避する場合の具体例
葛藤を回避する場合は、諦める、ということです。
欲しいと思っていたけれども、やっぱりいらない、と自分に言い聞かせて、欲しくなかったということにしてしまう、ということになります。
これもやはり、解釈の変更を行うことによって認知的不協和を解消しようとしている、と言えます。
認知的不協和についてはこちらをご覧ください
なぜ悩むのか?
そもそも、なぜ人は悩むのでしょう?
これは、おそらく人間は損をしたり、自分に被害が及ぶようなことを嫌う、という元々からの性質が関係していると思われます。
(もし人間の心理がこれとは違うものに立脚していた、ということが証明されたとしたらば、ものすごい大発見になる可能性があると思いますが、おそらくこれは揺らぐことがないのではないか、と思います)
心理学者の中には「すべての悩みは対人関係である」(アドラー)と悩みの原因を定義した学者もいます。
損をしたくない、あるいは、自分以外の要素(他人、環境など)によって危害を加えられることを避けたい、という感情はどこからきているのかは不明ですが、人間が進化してきた過程が大きく影響している可能性がある、と私は思います(厳しい環境で生きていくことを余儀なくされたことから、生き残るために体や心を形作ってきたのではないか?)
ひょっとすると、ある程度のレベルまでは、人間の心も遺伝子レベルで決定されており、そのプログラムされたものの上に私たちは行動している可能性もあります(その上で、その都度起きた現象に対する反応がある?)
恐れの感情はマイナス要素ばかりではない
葛藤の背後に恐れの感情があるとして、では、恐れの感情を持つこと自体はマイナスなことなのかというと、必ずしもそればかりではない、と思います。
恐れがなければ、危険を察知することができません。
恐れの感情があることで、それを克服しようとする気持ちも生まれます。
それがあったからこそ、人間は技術を向上させたり、環境を整えたりする努力をすることができた、とも言えるはずです。
(もっとも、恐れが行き過ぎたことで、お互いに意思疎通ができなくなって、争いが生まれる、ということも起きたりするわけですが…)
また、恐れがあるからこそ、自分と自分以外のものを判別することもできるはずです。
行き過ぎた恐れは弊害が大きいですが、正しく理解した上で適度に恐れる、というくらいでいることができればいいのかもしれません。
まとめ
とはいえ、やはり葛藤に置かれた状態は辛いものがあります。
深刻な葛藤に至らないようにかわすことができるようになれれば、そもそもその葛藤は葛藤ではなくなる、とも言えます。
生きている中で、必ず葛藤は日常的に生まれていくものです。
うまく生きていく、ということがもし、物事を受け流すことができるかどうか(という余裕のある状態に至れるかどうか)だとするならば、葛藤を感じたとしても、それはそれとして無駄に悩まないようにする、ということが対処法としては手っ取り早い解決策だと言えるでしょう。
受け流すということは、問題は問題としてそのまま残っていくことにもなりますが、むしろ自分で(相手が望む・望まないに関わらず)問題を自分の価値観で解決しようとしてしまうからこそ、うまくいかない、ということもあるかもしれません…