吾輩は猫である|夏目漱石|昔読んだ本の思い出

2020-06-05

(写真はイメージです)

『吾輩は猫である』の思い出

私がこの本に出会ったのは、中学1年生の頃です。

最初に読んだ感想は、「当て字が多くて訳のわからない本」という程度でした。この作品が持つ社会風刺的要素までを汲み取ることができなかった、ということです(^^;

その後、時間が経って再度手に取ったのは、大学に入学してからでした。

当時、私は19歳でした。

人生に悩んでいたので、同じく人生に悩んでいたであろう漱石が書いたこの本を読んでみたところ、世の中のしょうもなさ、くだらなさ、バカバカしさ、といったものが伝わってきたような気がしました。

時代背景

この作品が書かれた時代は1905年(明治38年)です。

歴史的には日露戦争が起きたのが1904年、日露講和条約が結ばれたのが1905年です。

明治維新が1968年、明治になってからおよそ40年経過した時代です。

欧米列強に負けじと殖産興業、富国強兵にまっしぐらに進んでいた時代であり、世界史的にはロシアの南下政策をかろうじてかわすことに成功した日露戦争の頃にあたります。

後の漱石の作品では、一等国についての記述が出てきたりもしますが、漱石が小説家として生きた時代は、日露戦争後の文化やジャーナリズムが安定して発展した、そして世の中も少し浮かれていると言える時代?とも言えそうです。

後に漱石が文明論を述べたりするのも、この延長線上にあります。

作家としての漱石の人生

漱石は、官費でのイギリス留学から帰国し、東京帝国大学で教鞭をとっていました。しかし、漱石の講義は学生には不評で、漱石を悩ませる事件(藤村操が日光華厳の滝に入水自殺した事件。藤村は数日前に漱石に叱責されていた、とされる)も発生するなど認め、精神的に不安定になっていました。

療養の結果、一時的に精神状態は安定に向かったのですが、その期間中、高浜虚子に勧められて小説を書き始めます。それがこの『吾輩は猫である』でした。

1905年(明治38年)の「ホトトギス」誌上に1回の読み切り作品として掲載されたところ、好評を得て、続編が執筆されます。

(確かに、作品を読んでみると、「読者からの贈り物が届いているのに、それを飼い主が横取りして食べてしまった」というような内容の文があります)


この作品の成功を機に、次第に職業作家への憧れを抱いた漱石は、1907年(明治40年)帝大教授を辞し、朝日新聞社の専属作家となります。

漱石は1916年(大正5年)に亡くなります。漱石の作家としての活動期間は、10年あまり。この期間を漱石奇跡の10年、と呼ぶ人もいます。

漱石の文学史的な立場

文学史的な分類では、漱石の文学は余裕派、と言われます。

余裕派についての解説

余裕派(よゆうは)は、戦前日本文学の流派の一つ。

正岡子規写生文に始まり、夏目漱石とその門下の作家を中心とする一派であった。

人生に対して余裕を持って望み、高踏的な見方で物事を捉えるという、「低徊趣味的」(漱石の造語)な要素を含む。この一派として高浜虚子寺田寅彦鈴木三重吉らが挙げられる。また森鷗外ら『スバル』『三田文学』などによった作家も分類されることもあり、次第に反自然主義の一派と同視され、その境界線は曖昧になっていった。

余裕派という名称は、漱石が虚子の小説『鶏頭』の序文で「余裕のある小説と、余裕のない小説」と書いたことに由来する。

Wikipediaより https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BD%99%E8%A3%95%E6%B4%BE

なお、日本における自然主義文学は、本来あるはずの客観性が次第に失われ、現実を赤裸々に描くことが主流となり、やがて「私小説」と言われるスタイルになっていきます。

余裕派は、この風潮とは一線を画し、世俗を離れて人生をゆったり眺めようとする文学一派、と目されるようです。

まとめ

やはり、日本文学や夏目漱石を語る上では外すことができない作品かと思います。

文学が現実に及ぼすことができる効用は、この作品で現実にこれだけある、ということは言えません。

小説は実用書ではありません。

小説の価値はそういうことではなく、人や世の中の心を知ることにあるのだとしたら、『吾輩は猫である』の持つ意味はとても深いものがあります。

(教養とは、おそらくそういうことであり、それを感じて思いを馳せることが「心の豊かさ」ではないか?と思います)

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