コストの問題|タダなものはない

2020-10-07

何事にもコストがかかる!

人間、生きているだけでコストがかかります。

ものを市場を経由してお金を払って交換して手に入れている以上、コストを払わないと手に入らないものばかりです。

東京の一等地に1時間車を駐車するだけで、600円以上かかります。

私が住んでいる地方都市だと、1時間で150円から200円程度ですので、土地が高い場所になればなるほど、ただいるだけでコストを払わなければいけない、ということになります。

ただものを置いておくだけなのに、時給が安いアルバイトで1時間働くのとあまり変わらないような金額を取られてしまうというのは、ちょっとびっくりしてしまうような話です…

コストあれこれ

コストにはどんなものがあるのか、思いつくだけ列挙してみました。

  • 経済的コスト(お金)
  • 時間的コスト(時間)
  • 肉体的コスト(肉体を使う手間)
  • 頭脳的コスト(思考する手間)
  • 精神的コスト(不安・楽しい)
  • より高次の精神的コスト(愛情・自己実現)
  • 社会的コスト(名誉・承認・評判)
  • 安全コスト(体の安全)
  • 環境コスト(自分を取り巻くもの)
  • 処理コスト(中止する、処分する、止める)
  • 生産活動のためのコスト(仕事・趣味・生きがい)

(コストはまだほかにもあるかもしれません)

分類が違う!とおっしゃる方もおられると思いますが、目くじら立てずにもうしばらくお付き合いください…

コストは、お金そのものの場合もあれば、生きるために必要な安全に対して支払うコスト、生理的欲求を満たすために必要となるコスト、社会的な立場を得たり守ったりするためのコスト、自分が生きていくための生きがいのためのコスト、あるいは、自分を成り立たせてくれている環境に対して支払うコスト、生きる糧を得るために支払うコスト、などがあります。

ほとんどがお金で支払うことになることは事実ですが、精神的な負担、疲労というものは、お金に換算しにくいものです。

つまり、お金の価値に変えて評価できるコストと、できないコストがある、ということになります。

どちらにせよ、ただ生きていくだけで、自分や自分以外のものにコストを払い続けていかなければ生きていけない、ということになります。

無料で手に入るもの

世の中には、無料で手に入るものがあります。

無料とはいえ、それを生み出すためにはコストがかかっています。

自分でお金を払っていないだけで、実際は他のところからお金を払うことになっていたりします。

無料である代わりに個人情報を提供しなければいけなかったり(その個人情報は長い目で見ると特定の人にはものすごい価値を含んでいる)すでにコストとして支払っていることになっていて実際は無料ではなかったり、ということがほとんどです。

無料と言えるのは、おそらく、労力を加えなくても手に入るようなもの(誰の持ち物でもない果物のなる樹の果実、野生の花、自生している食べられる食物など、自然の恵みと言えるようなもの)くらいではないか、と思います。

有料で手に入るもの

有料でなければ手に入らないものは、人間が価値を認めたもので、自然物・人工物を問ません。

手に入りにくいから、あるいはとても性能が高いから、などの理由で、欲しい人が多いのに数が限られていたり、そもそもそれを作るのにものすごくコストがすでにかかっているから、という理由があって、有料でなければ提供できないからこそ、有料となっています(もちろん、流通させるのにも、運搬するのにも、なんでもコストはかかります)

この有料のものの価格は、その時の評価で決まります。

情報のコスト

情報の場合、それを得るためにはコストがかかります。

取材したり、写真に収めたり、映像として残したりするのは、無料ではできません。

娯楽のために旅行に行くのでさえ、移動したり宿泊するのにはコストがかかります。

良質な情報を手に入れるためには、よい情報がえられる場所にいかなければいけません。

そこで、内部に入り込んだり、現場に赴かなければ、そこで起きていることはわからないことが多いです。

統計資料を当たるにしても、その統計を作るためにはコストがかかっています、

さらに、そこで得た情報を加工したりするのにも、コストがかかります。

編集スキルを磨くためには、自己投資して行く必要もあります。

よい情報を提供してもらうためには、日頃から提供元になる場所や人に接触することも必要になるでしょうから、やはりなんらかのコストを払うことになります。

何もしないで得られるものは、確かにそれはそれでいいのですが、質的に高いものを手に入れようとする場合、どうしてもコストを払うことなくして手に入らないものが非常に多い、というのが現実です。

Google検索にもコストがかかっている

なお、あまり普段は意識に上らないことですが、インターネット検索もコストがかかっています。

Google検索は、検索エンジンサービスを無料で提供する代わりに広告主から広告料を取ることで収益を得ています。

検索エンジンサービスを展開するためには設備投資も必要ですし、人件費もかかりますし、運用していくからにはランニングコストがかかっていくことになります(税金も発生します)

ということなので、使っている側にとっては無料ですが、実際にはGoogleで1回検索するとコストがかかっていることになります(一説には、1検索あたり2円以上のコストがかかっているようです。ちなみに、アメリカ国内の1日の検索利用件数は、Googleだけで2億4000万件を超える、とされます)

これを完全に無料で運営するのは無理です。

質の良いものを手に入れることの意味

なぜコストを払ってまで何かを手に入れようとするか?

その理由の1つは、時間を節約するためです。

さらにもう1つは、結果をより良いものにするためです。

人間が永遠に生きられるなら、1日かけて同じ作業をしていてもいいかもしれませんが…(たとえ、それが1日かけて服を着る、という作業であったとしても)

実際には、時間はありません。

それに、自分以外にもそれに関与する人がいて、待たせてはいけなかったりすることがほとんどです。

仕上がりをよくするために専用の道具を手に入れるように、質を維持するためには、なんらかのコストを支払った方がうまくいくこともあります。

少なくとも、コストを払うことによって、良いものが手に入ったり、よい結果が得られる確率が上がります。

それを手に入れることの最終的な目標は、満足を得ることにあります。

お金をかけるだけで満足が得られるとは限らない

もちろん、お金がかかるのに質が伴っていないものも世の中にはあります。

見当違いなものや必要ないことにコストをかけても、そもそも本来必要でないことならば、それは自分がしたいと思っていることに直接良い影響を与えることはなく、そのため、無駄な出費になってしまいます。

なので、自分がなにを求めているのかを知ることはとても大事で、さらに、その求めるものに対して何を利用すれば効果が上がるのかを(なんとなくでいいので)わからないと、結果は出にくくなります。

骨董品の世界は騙されて値段よりも価値が低いものを買わされながら、少しずつ勉強していくような世界のようですが、これは他の分野についても当てはまります。

小学1年生に大学生の勉強を理解させることが難しく、専門書を与えても価値がほとんどないことになるかと思いますが、小学生が悪いということにはなりません。

小学1年生とその専門書がマッチしていないことが問題なのです。

おそらく、その小学生にはあと10年程度の学習期間が必要であり、それを経てやっとその専門書を読む入り口に達するかもしれませんが、専門書はその道のプロフェッショナルが読んでも完全に極められるという保証はありません。

どれにも価値がない、と言いたいのではありません。

何かを求める場合、求めようとする側には、使いこなすだけの事前のトレーニングと、選ぶときの吟味、そして十分に使いこなすだけの技量が必要だということです(選ぶものも、それに見合った価値を持っている必要がある。その価値は、違う人にはまったく無価値に見えるが、必要な人にはとても価値がある、というような不思議な現象が起きることもある…^^)

余裕を持つということ

コストは何についてもかかってきます。

お金で解決できる問題は、お金で解決した方が身のためです(さもないと、電車やタクシーも使わず片道100kmや200kmの道のりも苦労して自力で歩いていかなければなりません)

世の中にあるものは、すべて有限です(心の問題はわかりません)

その有限さをいろいろと考えながら、それをどう使いこなせば良い結果が得られるか、ということが大事です。 

時間は、過ぎたら戻ってきません。

気がついたら老人になっていて、健康も失い、「こんなはずじゃなかった…」と後悔しても、それを誰もどうすることはできません。

節約することは大事ですが、必要なものにはきちんとコストをかけていかないと、大事なものを失うこともあります。

あまり深刻にならず、厳しくなり過ぎず、とはいえ気が緩み過ぎないようにしながら、適度に余裕を持てるように生きていければ1番いいのではないか、と思います。

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