自分らしく生きる、ということ
どこまで探究しても、自分というのはわからないものです。
もしかすると、探し求めても一生わからないものなのかもしれません。
ただ、自分を形作っているものは、それまで与えられてきたものだったり、周囲の環境だったり、人間関係だったりします。
そうしたものの中に人が置かれ、作られていくものが自分、というものです。
なので、自分らしく、ということは、そうやっていろんな要素の影響の下で作られた自分を生きていく、という面が大きいです。
自分の人生は自分のもの
では、自分の人生は、誰のものなのでしょう?
確かに、いろいろな人から与えられたもので生かされたことによって、自分というものが完成した、という部分は大きいです。
ですが、自分はやはり自分なのです。
仮に、そうして世話になった人たちのためだけに生きたとすると、その恩人はあなたをロボットにしたのと同じことです。
それは、望ましい関係でしょうか?
自分の子どもを、自分が将来動けなくなったときのための生活保障の手段としてだけ育て「俺の言うことだけ聞いてればいいんだ」と言い放つ人間がいたら、どう思いますか?
私は、嫌です。
人の人生はせいぜい100年ほどしかありません。
70歳前後になれば体力も大幅に落ち、若い頃のように活発に動くことはできなくなります。
人生は、何かやろうとすると非常に短いものです。
そして、自分の人生は、自分のものです。
貴重な人生は他人の人生ではないし、他人のためだけにあるものではありません。
人は、自分の人生を自分のために生きる権利があります。
他人を生きるとどうなるか?
自分であることを捨てて、他人を生きるとどうなると思いますか?
それは、自分ではない状態です。
そして、他人を生きている時点で、自分を犠牲にしていることになります。
周囲の期待に応えるための生き方をすると…?
たまに、周囲の期待に応えるための生き方をしている人がいますが(大学受験で自分の意思と関係なく必死に周囲の期待を叶えようとする子どもや、自分の目標とは違うものを背負わされてそれに応えようとする人)、それは悲劇的な結末を迎えることもあります。
その目標が達成されない場合、周囲はその人に対して「残念だった」と言うだけです。
その人自身も「目標が叶えられず申し訳ない」と言いながら生きていくことになりかねません。
ですが、そもそもの動機となった期待って、かなり勝手なものでしかありません。
しかも、それを叶えられなかったから、といって、期待をかけた方は責任を取ってくれるわけではありません。
(他人のいいかげんさをまともに捉えて一生懸命努力させられている方が、たまったものではないはずなのですが、目標を叶えることが自己目的化していくのが奇妙とも言えます)
ハッと気がついたときには、もう人生の半分もとっくに過ぎ、自分は一体何がしたかったのだろう?と人生を後悔することにもなりかねません。
世の中は無責任なもの
断言します。
世の中は、無責任です。
自分だけがその無責任さに翻弄され、その無責任さをあなたが自分以外の人に対して発揮してはいけない、という理屈も存在しないはずです。
もちろん、何をしてもいいということを言いたいわけではありません。
ただ、自分を生きることを遠慮する必要など、微塵もないのです。
もし、人生に迷ったら、環境や考え方をリセットするチャンスです。
ふらっとどこか旅行に出かけて、新しい価値観に触れてくるのがいいかと思います(^^