インターネットがもたらしたもの
インターネットの原型は、科学技術研究機関でコンピュータ同士を接続して運用されていたコンピュータネットワークでした。
そこから、軍事転用目的でアメリカ軍が軍事用に用いるためにネットワークをアメリカ国内に敷くようになり、その後、それが民間にも解放されるようになった、という経緯があります。
その後、公的機関が関与することはなくなり、民間に解放されました。
インターネットが一般的に使われるようになったのは、1990年代後半になってからです。
私の実感としては、公的機関や民間企業での導入が進みはじめたのが先で、その後、ECサイトが登場してインターネットで商品を購入するというスタイルが普及しはじめてからは一気にその存在感が大きくなっていったように思います(2000年代半ばにはその状況が生まれつつあった)
その後、2010年代になると、もはや生活の一部として手放すことができなくなり、インターネットに関わる様々なものの料金も劇的に下がっていったこともあって、コンテンツを従来では考えられない安い料金・しかも定額・使い放題で提供する事業者が現れたりしました。
携帯電話がインターネットに繋がるようになってからは、携帯電話、スマホからアクセスすることも多くなり、それ向けのサービスが増えていったりもしました。
良い影響
インターネットがもたらした良い影響は、世の中の構造をよりフラットにしたことにあります。
情報を得ることが容易になったことで、絶対的だった存在、絶対的だった権威の中身がわかるようになり、その結果、それが本当はどうだったか、ということがわかるようになってしまいました。
あるいは、情報を得たことで権威の正統性を疑問に思うことが多くなったりして、その結果、権威が失墜する、ということも起きたりします。
それまでベールに包まれていたものの中身が暴かれて、情報を発信する側と受け取る側の差が小さくなり、相対化されていきました。
そのほか、流通経路が変化したり、お金の流れが変わったこと、人の流れが変わったことも、良い影響をもたらした面があります(ただし、悪い影響が出た分野もある)
悪い影響
インターネットに人の関心が集まっていったことにより、悪い影響を受けた分野というものがあります。
例えば、娯楽分野で競合するようなテレビ、ラジオ、雑誌などは、インターネット経由で無料で情報が手に入るようになったことで、その存在価値を落とすことになりました。
また、実際にお店に行かなくてもものが買えるようになったことで、客足が減少して、閉店に追い込まれたお店もあります。
商店が消えることで、インターネットをあまり使わない人たちにも商品が買えない、という悪影響が出てしまい、特に店が揃っていることで価値が出るような商店街の場合は、店舗が消えることによってその商店街の全体の価値まで損なわれるような事態が起こります。
こうしたことがあちこちで起きたことで、生活がしにくくなったこともまた事実です。
その他に、インターネット依存が大きくなって、生活がうまく行かなくなる、という状態に陥った人もいます。
不可逆的な進歩
インターネットは、おそらく後戻りできないほどの発明です。
いまからインターネットを使わないようにすることは、できないだろうと思います。
電気を使わないことを強制できないように、インターネットを使わないことも強制することは難しいでしょう。
しかも、コンピュータの性能は上がり続けており、逆に価格は下がり続けています。
現状でもインターネット人口が全世界の57パーセントに達している、という調査結果があります(「DIGITAL2019」より Global Digital Report 2019 - We Are Social )
はっきり言って、40億人以上の人から、コンピュータやスマホを取り上げることは無理です。
おそらく、生活を変えた発明として、電球や車と同じようにインターネットも将来の歴史の教科書で紹介されることと思います。
情報量が増えた結果
インターネットが登場したことで、生きている間に受け取ることができる情報量は飛躍的に多くなりました。
しかも、必要ではない情報まで浴びせられるようになりました(一説では、受け取ることができる情報量は500倍以上になった、と言われている)
これほど急激な拡大は、歴史上起こったことがありません。
ですので、現代に生きる人々は、かつて誰も経験したことがないまったく新しい状況に置かれていることになります。
人生の長さは500倍になったわけではありません。
ということなので、圧倒的に情報が多すぎる、と言えます。
これは、もはや「良い悪い」ということではなく、そうなってしまったという状況であり、逃れることはできないものです(本当にこれから逃れるためには、無人島で自給自足の生活をするしかありません)
世の中の関心が「人の欲望にいかに訴えかけるかを競う」ことに向かいがちになったことも事実です。
ほかにやることもあるとは思いますが、ひとまず人に何かを伝えること、それを通じて何かを実現していくこと、に関心を寄せる人が増えました。
インターネットの世界は情報を統制しているものがない状態と同じです。
そのため、質の高い情報も、低い情報も手に入ります(求めていなくても入ってきてしまう)
人の欲望に巧妙に入り込もうとする情報から身を守るためには、その情報がどういうものかを知らないとまず無理なので、結局のところ、良いことと悪いことを知りながら、目の前にあるものがどの位置にあるのか(それを見ている自分の嗜好がどんな傾向があるかということも把握しながら)知っていないと難しい部分があります。
ですので、ものを見る目、判断力を持つことが、過去の時代よりもさらに重要になっています。
美とコルセット
(話がまったく違う方向に飛ぶように見えますが、もうしばらくお付き合いください)
ヨーロッパ貴族の女性の話ですが、ある時代までは、女性はコルセットで体型を補正し、美しく見せる、ということが普通だったようです。
つまり、ダイエットなどをして体を絞って美しく見せる、というのではなく、コルセットという道具に自分の体を押し込めるようにして体型を美しく見せる、ということです。
これは、自助努力を必要とするか、それとも何かに身を任せて自分を拘束するか、の違いがあります(美しさに変わりはないのかもしれないですが…)
インターネットのことに当てはめるならば、自助努力が必要な状態か、それとも外部に身を委ねるか(つまり考えなくてもいい状態に身を置くか)の違いです。
自ら律する必要がある世界は厳しい
自らにルールを課して、それを守り通すことは、実際には難しいことがあります。
そうではなく、何も考えないで言われるがままにされていた方が楽、ということもあります。
自分で責任をとる、というのは、非常に辛い結果をもたらすこともある、それが現実です…
何かを貫いてやり抜こうとすればするほど、困難も襲ってくるし、失敗するとものすごい困難が降りかかってくることになりかねない、しかも、批判にさらされることもある…
それだったら、何かに身を任せてしまった方が楽、と思うのも当然です。
少なくとも、困ったことや嫌なことから逃れたい、と思うのが人間であり、それを乗り越えてもいいと思うだけの目標に向けて歩いていけるだけの強さを得ることは、簡単なことではありません。
自ら喜んで苦しみを受けにいくようなことは、普通、誰もしません…(単純に見ても、苦しむことが増えます…)
それをしている人は、なんらかの使命感を持った人、見つけた人です。
流れに乗りながら、流れに流されない
大事なことは、情報を活用しながらも、それに流されない、ということかと思います。
もはや、インターネットを遮断することは不可能です。
良い影響の部分をうまく利用し、悪い影響の部分からは身を遠ざける、そして、うまく使いこなす。
それしかおそらくできません。
私たちは、使い方には注意が必要だけれども、良い方向に使いこなせれば良い方向に、悪い方向に使えば悪い方向に何かを導いてしまう道具を持ってしまいました。
それを使いこなせるだけの精神性、人間性を確保しろ、という要請が結果的に高まるのならば、むしろインターネットのおかげで人間性が良い方向に向かっていってくれる、ということもないわけではない。
パンドラの箱には希望が残っていた、私は、そんな話を思い出しました…
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