個人と集団

コラム

世間と個人の関係|映画「七人の侍」から考える

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映画「七人の侍」を例に、世間とそれ以外の人のことについて考えます。

映画「七人の侍」あらすじ

七人の侍』(しちにんのさむらい)は、1954年に公開された日本時代劇映画である。監督は黒澤明、主演は三船敏郎志村喬モノクロスタンダードサイズ、207分。日本の戦国時代天正年間(劇中の台詞によると1586年[注釈 1])を舞台とし、野武士の略奪に悩む百姓に雇われた7人のが、身分差による軋轢を乗り越えながら協力して野武士の襲撃から村を守るという物語である。

Wikipediaより 

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%83%E4%BA%BA%E3%81%AE%E4%BE%8D

なお、この映画のラストシーンでは、とても印象的なセリフが語られます。

「勝ったのはあの百姓たちだ、わしたちではない」

村人は、襲撃してくる野武士が退治されたこともあり、喜んでいますが、それと対照的に、村人に雇われて戦った侍の表情は冴えないままです(しかも7名中4名が命を落としています)

「世間」というもの

この映画の舞台は戦国時代です。

現在の日本では社会の規律が緩んできていますが、日本社会の特徴は「ムラ社会」と言われています。

村という集団が社会を構成している、ということになります(村はいくつもあり、その村の中心である長老たちを尊重し、その人たちの言うこと参考にしながら村の方針が決まっていくことになる)

戦国時代ともなると、まだ統一された近代国家は誕生しておらず、大小様々な領主があちこちにいて、その領主が農民を支配する、という社会です。

ですので、社会の基本は村に大きく関係しています。

「世間」という言葉がよく使われますが、世間はおそらくこの「村」に大きく関係しています。

(「世間」とは、うまく言い換えることができない独特な概念だ、と言えます)

世間から外れるとどうなるか?

世間はあちこちにあります。

「村」の意味合いを持つ近所、会社、業界、あるいは世の中…

世間の境界線は目に見えませんが、確かに世間はあります。

それぞれの世間を統括する代表者のような人がいて、その人たちが寄り集まって何かが決まっていく、という傾向もあります(寄合や会議が開かれる前にはすでに根回しが行われていて、それが開かられる前にだいたい物事が決定していることも多い)

この世間から外れることは、場合によっては死刑宣告のようなもので、そこで生きていくことが難しくなります。

ムラ社会の構造

なぜムラ社会なのか?

おそらく、それは過去の農耕社会の名残だと思われます。

水田を維持するためには水の量を管理する必要もあり、その維持のために治水工事も必要になります。

また、時期を逃さず田植えをしないといけませんし、その他にも水田を維持する=生きていくために、その村を構成する人たちと足並みを揃えて行動することが必要になります。

また、その土地の環境の特徴(気候のことなど)や言い伝えを無視してしまうと、下手をすると作物が育たなくなったりすることもあるかもしれません。

と言うことなので、所属する村の決まりに従うことが必要だったのではないか?と思われます。

村の長老を中心としてそれらの情報を伝達していくことになりますが、長老を大切にしていかないといけないことにもなるので、その結果、村は一種の社会保障的な意味も持ち合わせていたのかもしれません。

若いうちは意見があっても長老の言うことを聞いて、その教えを受け入れていけば、間違いがない、とも言えます(ずっと伝承されてきた、という時間の検証を潜り抜けてきた、という事実もある)

この考え方には利点もありますが、もしかすると欠点も含まれているように思います。

世間から外れたらどうしたらいいか?

日本社会だけにこの「世間」がある、とは思えませんが、とりわけ日本の場合、比較的に同じ言葉を話す同じような考え方をする人間で構成された社会だったこともあって、世間が強力に存在しています。

それはそれとして…

もし仮に世間に反することになってしまった時、その人は一体どうしたらいいのでしょう?

ちょっと違うことをしようとしたり、違うことを発見してそれを伝えようとして「あいつはおかしな奴だ」というレッテルを貼られることはあります。

「そうなることを回避していたら、村が危機にさらされてしまうかもしれない…」

そう思って誰にも信じてもらえないことを主張したとして、村人から嫌われ、相手にされなくなり…ということもありうることです。

その人が仮にそうして村に居られなくなってしまったら…?

戦国時代の武士

(少し話題を変えます)

戦国時代の武士は、それぞれが領地を持っていました。

戦国大名と呼ばれるかどうかは、その経済力の規模の違いです。

小さな規模しかない武士もいて、しかも、特定の勢力には属していない武士もいます(時勢によって自らの考え方にしたがって支持する勢力を変えたりする)

それぞれの武士は領主であり、その土地を安堵される(保証される)形で領有権を持っており、その領地で実際に土地を耕しながら戦のときは戦闘に参加する武士もいます。

なので、武士は独立した個であり、その規模の大小はあっても武士はずっと武士で、大きな勢力を持つ同じ大名の配下に居続ける者もあれば、そうでなく仕官する先をコロコロ変える者もいます。

集団と個

こうして考えると、農村には村という世間があります。

それを支配する武士にも世間があります。

武士の場合、元々所属していた勢力を離れて新しい勢力に加わる、ということがありそうですので、世間を外れることは割とあったことなのかもしれません。

ですが、農民の場合、世間から外れてしまうと大変なことになりかねません(本当のところはどうかわかりませんが、生きていくことが難しくなるかもしれません)

いかに関わっていくか?

「七人の侍」では、おそらく雇われた武士も襲ってくる武士も、なんらかの基盤を持っていたのかもしれません。

そして、戦闘の結果、武士たちは命を失う者もあり、農民はただそこから利益を得ているだけです(襲ってくる野武士は撃退された)

そして、農村という世間は変わらずそこにあり続けるはずです。

もしかすると、世間から外れても構わない立場にいたのかもしれない武士たちは、なんら得るところは無かった?

世間との関わり合いをどうしたらいいのか、ということのヒントが(もしかすると)あるかもしれません。

世間は強固に存在し続け、それに利用された者たちは何ら得るところがなかった…

つまり…

所属している世間で生きていこうとする場合

  世間からは外れないように生きる

世間から外れてしまった場合

  他の人から利用されないように生きる(関わる方法を間違えると大変なことになる)

ということになるのかもしれません。

会社も1つの世間だとして、そこを退職して自分で仕事をするようになった場合、新しい世間に所属するまでは時間がかかることになりますので、映画の中の武士のようにならないように自らを守るようにしないといけないのかもしれません…

まとめ

「理念を実現したい!」と思って所属する場所を離れる、と言うことはありうることです。

その時、自分にその思いを実現する力がなければ、思いを実現することはできません。

(結局、世間に握り潰されてしまうことにもなりかねません)

ですが、社会を変えるのは、この「世間を外れてしまった人」のこともあります。

世間から外れることで嫌な目に遭うこともありますが、そうなることを覚悟した上で、自らを生きることで自らの考え方を実現できるのであれば、それはとても意味があることだ、と私には思えます。

おそらく、世間は世間のままあり続け、世間は世間を外れた人に偏見を持つかもしれませんが、世間を救うのは必ずしも世間ではない(かもしれません)

そして、世間が問題を抱えたときにその世間を救うのは、世間を外れてしまった人かもしれませんが、仮に救われた後、世間が世間を外れた人をどう扱うかはわからない、ということにもなりそうです(現実がこの映画の通りならば、です…)

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